教授 伊丹敬之
【おめでとう】
マーキュリー会のメールマガジンの発刊、おめでとう。みなさんの努力で、HMBAがますます発展の歩みを加速させていることを、本当にうれしく思います。
そのHMBAの基本コンセプトを、私は文部科学省の審議会で高らかに宣言してきました。時は、2004年7月。中央教育審議会大学院部会で人文社会科学系の大学院のあり方について、意見を述べる機会を与えられたのです。現場の大学院教育の担当者の声を直接に聞きたいという大学院部会の要望で、全国の人文社会科学系の大学院の中からただ一校、私に依頼がきたものです。私の発表は、これぞ社会科学系の高度職業人養成の大学院プログラムのあり方、と審議会のメンバーに大好評でした。
以下の文章は、文科省関係の雑誌『高等教育』にその後依頼されて審議会での私の発表を文章化したものです。HMBAの活動を私がどのような形で文科省の正式な場で伝えているか、その息づかいもみなさんに知っておいて欲しいと思い、再録することにしました。ただし、長さの関係で一部を削除しています。
【HMBAの試み】
一橋大学大学院商学研究科では、2000年からいわゆるMBAプログラムを正式に開始した。一学年の定員は50名弱で、社会人経験者を主なる学生と想定するがしかし新卒も排除しない、昼間開講の修了年限2年、というアメリカのビジネススクールと形式はまったく同じプログラムである。夜間プログラムでないために、参加する学生は仕事をふつうにもったままでは受講不可能である。したがって、学生の約7割弱を占める社会人経験者はそれまで働いていた企業を辞職するもの、休職するもの、企業派遣のもの、とさまざまであるが、いずれも職場をいったん離れての参加である。幸いにも多くの学生が興味を持ってくれているようで、入試倍率は4倍前後を維持し、また年々受験者の質が上がっていることが実感できており、いいプログラムに育ってきていると自負している。
このプログラムの正式開始に至る前の4年間ほどは、「修士専修プログラム」という名称で商学研究科のそれまでの学生定員の中のプログラムとして実験を行ってきた。その準備が整ったという判断で、大学院重点化と共に経営学修士コースとして正式発足させたのである。ただし、このコースは予算措置を特別に文部科学省から受けたものではなく、商学研究科の従来の予算と定員の枠の中で、大学として自発的にそれまでの研究者養成のための大学院教育とは異なるプログラムとして、高度専門職業人教育プログラムを発足させたものである。一つの研究科の中に研究者養成と高度職業人養成という二つのコースをもち(全体定員のおよそ4割弱が研究者養成)、一つの教員組織が従来と同じ教員定員数で二つの教育負担を引き受ける、という体制をあえてとったのである。いわゆる専門職大学院のように教員組織を分けるという発想ではないのである。したがって、本商学研究科は、将来はいざ知らず、現在のところ専門職大学院という認定は受けていない。
【基本コンセプトの重要性】
我々は、ビジネス系の大学院の基本コンセプトは、「実学の象牙の塔」という一見、矛盾しそうなコンセプトである、と考えている。その矛盾しそうなことを目指すところに実は真実がある、という基本スタンスをもっている。この基本スタンスが、我々の試みの具体的内容を説明する原理である。
実学とは、現実に根ざした学問、現実と深く関わろうとする学問、という意味である。象牙の塔とは、深い知識・論理の体系の蓄積を生み出す行為の象徴的表現である。我々は、企業と産業、そしてその経営についての、「深い知識の湖」でありたいと思っている。その湖からあふれ出る知識が、高度専門職業人の教育に真に意味をもつ。それが、大学としての社会的意義だと考えている。
したがって、実務の世界と近い距離を持つ必要のあるビジネス系大学院といえども、単純な実務知識の切り売り機関に大学がなるべきではない。それは、社会の中の大学の存在意義、大学への社会の付託、に反することになる。そもそも社会の中の大学の最大の使命は、そうした深い知識の蓄積をそれぞれの専門分野で行うことである。それを、「象牙の塔」という言葉で表現したいのである。そこに、大学と専門学校の違いがある。専門学校には専門学校の存在意義がたしかにある。しかし、大学が専門学校に近づくことには、問題があると我々は考えるのである。
もちろん、「実学をきちんとする」必要は我々のような大学院には大きい。たんに、社会から遠く離れて象牙の塔に閉じこもればいいとはまったく考えていない。しかし、「実学をきちんとする」ことと「すぐに役に立つ実務知識を教える」ことの間には、大きな差があることを深く認識すべきである。どこに差があるかといえば、「実学をきちんとする」ためには、アカデミックな研究が不可欠という点である。実務知識の切り売りならば、それは必要ないであろう。
こうして研究の意義を強調すると、それはしばしば象牙の塔に閉じこもることの言い訳に使われる。それは我々の意図ではない。しかし、実学の研究をきちんとしている大学人は、同時に高度専門職業人の教育も立派に出来る、いやそういう大学人しか大学院レベルの専門職業人教育はできない、というのがわれわれの経験である。実務家出身者できちんとした研究が苦手の大学人は、案外、教育でも長期的には限界を露呈することが多い。その限界は、原理原則の深い理解が、高度な専門職業人教育にいかに重要かを物語っている。
【ファカルティ確保が最大の鍵】
大学が社会の中での深い知識の湖たらんとすれば、研究活動が大学の活動の中心になるべきだということは、自明のことのように思われる。もちろん、大学の大きな任務の一つは教育なのだが、その教育は研究の結果蓄積された知識がいわば湖からあふれ出ることによって達成される。あふれ出るだけの深さをたたえていない大学に、実務に近い教育といえども、意義の深い教育が出来るとは思えない。知的基盤あってこその、大学としての高度専門職業人教育なのである。
こうした知的基盤が重要であることと、そうした研究基盤のある教員だけがじつは高度専門教育を深いレベルで実践できるということを考え合わせると、日本のビジネス系大学院の課題は、二つあると思われる。
一つは、知的基盤の拡大と深耕である。その基盤がなければ、高度専門職業人教育を国レベルで大きな規模で実践できない。湖からあふれ出るほどに知識の深耕を大規模に行うということである。もう一つの課題は、その知的基盤の拡大を担える人材を養成していくことである。つまり、大学院を支える将来の教員層(ファカルティ)をいかに確保していくか、という問題である。
高度専門職業人の教育でも、その成功の最大の鍵は、ファカルティの確保である。その必要な質と量の確保ができていないのが、現在の日本のビジネス系大学院の最大の課題であると我々は思っている。そのために、折角始まったビジネススクールの教育水準が下がってしまっている実態があるのではないか。その低下がビジネスクールの社会的評価を下げてしまうと、いつまでも挽回不可能の負のサイクルにわれわれは突入してしまう危険がある。
ファカルティは、大学院での研究と教育のもっとも大切な資源である。その資源を大きく育てることなしに、ビジネス系大学院を日本に根付かせることは不可能である。そして、ファカルティ候補を一部、実務社会での経験者から確保する道はあってよいが、メインの供給ルートとして長期的に考えるべきは、研究者養成プログラムだとわれわれは考える。
【一つの教員組織が二つの教育を】
こう考えてくると、一つの研究科の中で、一つの教員組織が二つの教育(研究者養成と職業人教育)を同時に行うことの大切さが理解できるのではないかと思われる。
一つの教員組織が二つの教育を行うことによるメリットは、大別して三つある。一つは、研究者養成教育がないがしろにならず、きちんと行われると言うことである。もし職業人教育は職業人教育だけの組織に任せるとしてしまうと、高度職業人教育にとって意義の深い研究者養成を社会の中で誰が担当するのか、という問題が生まれてしまう。高度職業人教育の中核は研究者としての教育をきちんと受けた人でないと出来ないと、先にすでに指摘した。その人たちが、高度職業人教育の教育担当者となるのである。その人たちを育てるためにも、研究者養成教育は不可欠なのである。もちろん、その人々に教育とくに職業人教育への強い志向を持たせる必要がある。そのためにも、じつは同じ研究科の中に研究者養成プログラムと高度職業人プログラムが併存していることが意味をもつ。それは、一つの教員組織が二つの教育を行うことの第二のメリットから生まれる。
その第二のメリットとは、研究者養成教育と高度職業人教育が一つの組織の中で行われることによって、二つの教育の間に相互刺激が起きることである。たとえば、研究者養成コースの院生が高度専門職業人教育に関与する機会を持てる。TAでもいいし、ケース・ライティングの参加するのでもいい。研究者の卵たちにとって、彼らの高度専門職業人教育の訓練機会になる。さらには、高度職業人教育の方も、研究者養成教育の場で行われるアカデミックな教育や研究活動の恩恵を受けることが出来る。いわば、研究者養成教育の場で行われる知的基盤の深耕の成果が直接的に高度職業人教育へ及ぶのである。
一つの教員組織が二つの教育を同時の行うことの第三のメリットは、教員に対する刺激というメリットである。ファカルティは、大学の最大の財産である。その人たちが、知的基盤の深耕への適切な刺激を受け、本来望ましいと思われる研究活動(実学の象牙の塔)を目指すためには、二つの教育を同時に行う方がいい。
つまり、教員たちが高度職業人教育からは現実の社会からの刺激を受け、研究者教育からはアカデミックな刺激を受ける。我々の基本コンセプトである「実学の象牙の塔」の「実学」の部分がしっかりすることの一つの担保が高度職業人教育であり、「象牙の塔」の部分の担保が研究者養成教育なのである。
考えてみれば当たり前のことである。一つの教員組織が矛盾しそうな二つの教育をあえて同時に行おうとするからこそ、メリットが生まれるのである。アメリカのビジネススクールとして評価の高いところはすべて二つの教育(PhDとMBA)を両方やっているのである。
【質を充実させて、社会的認知を】
以上のような考え方でビジネススクールを作っていこうとすれば、望ましい建設速度はゆるやかにならざるを得ない。質の高い教育ができるだけのファカルティの確保がそれほど早いスピードではできないからである。
しかし、日本のビジネス系大学院は専門職大学院を中心として急速に設立されている。そのスピードは最適なスピードをはるかに超えている、というのが私の危惧である。
私たちの経営学修士コース修了者についても、MBAの意義について社会の認知はまだ十分ではない。その認知の問題は、我々だけの問題ではなく、日本のビジネス社会全体での高度専門職業人の必要性の認知の問題だと思われる。
社会的認知を上げる作業は、質の高いアウトプットを出す作業の継続しかない。短期的なPR作戦にも意味はあるが、長期的には卒業生の質と大学からの知的アウトプットによる評判が鍵となるだろう。その意味では、質が十分でない大学院の数が増えるあるいは規模が大きくなることの及ぼす全体的マイナス効果(社会的認知の意味で)は、深刻であろう。
しかも専門職大学院のかなりの部分が、専門学校の上級コースとの識別が出来ないような状況すら一部に見られ、またそこからの将来のファカルティの供給への展望もあまりない。それで、大学として、社会全体の中での機能を果たしていることになるのだろうか。
結局、日本のビジネス系大学院の基本的な課題は、どのくらいの数の大学院が「実学の象牙の塔」としての機能を果たせるか、に尽きると思う。その機能を果たせれば、社会的認知は上がり、卒業生への社会的需要も大学の研究アウトプットの社会的貢献も、大きくなっていくだろう。そうした社会的認知と社会の支持なくして、長期的にビジネス系大学院が日本社会の中で維持可能とはとても思えない。
そのための基本コンセプトが、実学の象牙の塔というコンセプトなのである。