助教授 松井剛
【雑貨という難問】
デパート、ショッピングセンター、商店街など買い物をする場で必ずと言っていいほど目にとまるのが「雑貨屋」である。20~30代の女性を中心として「雑貨」が好きなこだわりのある人は少なくない。それほど関心がない人でも「雑貨屋」で買い物をした経験は少なからずあるだろう。
ここで疑問が生まれる。そもそも雑貨とは何だろうか。雑貨屋は何を売っているのだろうか。雑貨は私たちの生活に馴染み深い存在にもかかわらず、この問いに答えることはなかなか難しい。そもそも「雑貨」といえば、金物屋で売っていた鍋ややかん、荒物屋で売っていたほうきやバケツなどを指していた。この既成概念を変えたのが、1974年、渋谷に「文化屋雑貨店」を開いた長谷川義太郎である。長谷川は、ショップ開設にあたり、「暮らしの場面で登場するものなら、鍋でもバケツでも靴下でも玩具でも『雑貨』と総称してかまわない。従来の分類にとらわれない自由な品揃えこそ、雑貨ショップの個性だ」と宣言したという。つまり、「雑貨」とは「雑貨」と呼ぶものすべてである、ということである。「雑貨」は主観的にしか定義づけられない、ということである。
【雑貨の定義づけ】
しかしながら、「雑貨」を定義づけようとする試みがないわけではない。例えば、雑貨に関する著作が多い瀧清子氏によれば、雑貨は生活雑貨と服飾雑貨からなるという。生活雑貨とは、食器や家電、ハウスリネンなどインテリア用品と、バスソルトなど使い切りの生活用品からなる。ただし、作り付け収納やベッド、ソファーのように可動性のない大きな家具は含まれない。一方、服飾雑貨とは、身につけるもので衣服以外の付属品的なもの全般を指すという。これら以外にもマニア向けグッズも雑貨と呼ばれることが多い。キャラクター人形、ノベルティ・グッズ、アンティークなどである。
以上の定義分類は実態を反映しているように見える。しかし実際にはベッドやソファーを置いている雑貨屋は少なくない。どうやらモノの分類から雑貨の範囲を定義づけることは難しそうである。
一方、雑貨コンサルタントの富本雅人氏のように、金物や荒物を「雑貨」、いわゆる雑貨屋で売られているものを「Zakka」と名付けて区別している例もある。商品の善し悪しを評価するポイントは、?ゝ’柔?、?▲妊競ぅ鸚?、?2然弊?にあるという。しかし「Zakka」については、これらに加えて?ど娉嘆礎佑?重要になるという。付加価値とは、「昭和40年代風の」、「ベトナムの」、「雑貨スタイリストの○○さんがすすめていた」、「デッドストックの」など、?銑?とは異なる商品の魅力である。「Zakka」の定義が曖昧なのは、10代女性と30代男性にとっての「Zakka」が異なったり、ベトナムならどこにでもある雑貨が日本では珍しいため「Zakka」になったりするように、人や場所や時代によって「付加価値」の捉え方が異なってくるからである。
【見せびらかしの消費としての雑貨】
興味深いのは、ここでいう「付加価値」が、長谷川義太郎がいう「自由な品揃え」とか「雑貨ショップの個性」と同じことを指している、ということである。つまり、「雑貨」を無理矢理定義づけようとすると、モノに対する売り手と買い手の創造的な意味づけ自体もまた楽しみの一部となっている有形財すべてを指す、といった非常に主観的な定義になってしまう。
そもそも雑貨を買い集めることは消費者にとってどのような意義があるのだろうか。ここで参考になりそうなのは、モノが自己表現の手段となるということを一世紀前に指摘したソースティン・ヴェブレンの「見せびらかしの消費」という考え方である(『有閑階級の理論』ちくま学芸文庫)。ヴェブレンによれば、モノは機能や性能といった側面ばかりではなく、モノを消費する人間の社会的な地位や経済力などを示す社会的指標としての側面を持ち合わせることを指摘した。こうした消費を通じて社会的地位の比較がなされると、人々は他人に負けまいと見栄の張り合いが行われるようになる。浪費とは、見栄の張り合いの帰結であるとヴェブレンは皮肉ったのである。現代を生きる私たちにも思い当たるふしがあるだろう。
ただし、雑貨集めという消費においては、あからさまな見栄の張り合いが行われることは、ごく一部の例外を除いてないだろう。また、雑貨を通じて表現したいのは社会的地位でもないだろう。しかしながら、雑貨集めの理由は、そのモノの機能や性能だけではなさそうである。むしろ、オシャレであったり、良いものを選び取ることができる「目利き」であったりすることを表現するために、すなわち持ち主の趣味の良さ表現するために、雑貨は消費されているようである。
重要なのは、こうした雑貨が持つ意味は、自分だけで消費されているのではなく、本人が意図するしないにかかわらず、彼女(あるいは彼)がどのような人間なのかを他人にアピールをしている、ということである。その人の部屋にある雑貨群を見ることで、または、その人がどのような雑貨が好きなのかを他人に話すことで、あるいは、その人がどのような雑貨屋でどのような雑貨を購入しているのかということで、そのひととなりが他者に理解されるのである。本棚を見ればその人がどのような人物なのかが分かるのと同じである。
もしそうであるならば、雑貨の本質は、機能とか性能ではなく、自分とは何者かを見せびらかすための意味に存すると言えるだろう。そのように考えるならば、雑貨屋とはその意味を販売する場であると解釈できる。すると、雑貨なり雑貨屋の差別化とは、モノに対する新たな意味づけを創造することと同義になる。雑貨メーカーなり雑貨屋が存続するためには、意味の創造が行われ続けなくてはならない。これは、雑貨業界における競争が存続する限り、留まることなく行われるはずである。この新たな意味の創造が行われ続ける限り、「雑貨」とは何かという問いは難問であり続けるであろう。