助教授 軽部大
■はじめに:大学の2つの顔
大学には当たり前だが2つの顔がある。その一つは教育を提供するという顔で、もう一つは研究を通じて新たな知を生み出すという顔である。どちらの顔も互いに切っては切り離せない関係にあって、まさに車の両輪の関係にある。教育が大事か、研究が大事かという問いに対する私の答えは、どちらも大事であるというものである。研究の種は、ある時は教育活動から出てくることもあるし、またそのような研究の種が研究成果となって結果的に教育活動の質の向上に寄与することもあるからである。教育が研究を育て、研究が教育をまた育てる。ポイントは教育か研究かという二律背反に捉えるのではなく、<教育と研究の好循環>をいかに創るかということにあるように思われる。
もちろん、両者の好循環には、起点が必要である。特に一橋大学のような、大学院を主体とする(いわゆる大学院大学化した)大学においては、その起点は教育ではなく、研究活動にあると思われる。優れた教育は深い洞察に基づく研究の継続的な蓄積があって初めて成立し存続すると思われるからである。もちろん、そのような研究活動なしに、優れた教育を行うことは短期的には可能だろうが、それはいずれ立ちゆかなくなる。継続的な研究活動は、良質な教育活動を維持し、さらにその質を向上させていくための大前提であり、いわば<苗床>なのである。
もっとも、すべての文脈を離れて、絶対的な意味で研究が大事だと主張するつもりは毛頭ない。研究だけをすれば良いというものでも全くない。累積的な知識の蓄積を期待できる純粋科学と異なり、日々現実が変化していく企業社会を分析対象とする経営学のような研究分野においては、企業社会で日々格闘する人々に対して、直面する現実の一歩先、あるいはその背後の現実について、少しでも理解を深める洞察や知見を幾ばくかでも提供できなければ、研究の意義もない。
そこで特に必要なのは、理論と現実の往復運動であると思われる。経営学は、動いている現実を対象としている本質的な「さが」ゆえに、必然的に理論と現実の境界に位置し、その間の往復運動を絶えず求められる学問である、いかにして生きた現実を理論化し、そこから得られた知見を意義あるものとして企業社会へ還元できるか。それが求められている。
■COE研究プロジェクト:理論と現実の往復運動の新たな試み
理論と現実の往復運動は、教育という側面ではすでに始まっている。HMBAはまさに教育という側面での理論と現実の往復運動という性格を持ち合わせたものであるし、2002年より試行プログラムとして開始され、2005年より正式プログラムとなったHSEP(HitotsubashiExecutiveProgram)もそのように位置づけられるプログラムであろう。ただし、そのような往復運動を意図した大学内の活動は、それらの教育活動にとどまらない。研究活動においてもまた、理論と現実の往復運動を志向する研究プロジェクトがすでに走り始めている。2003年度より文部科学省の「21世紀COEプログラム」の支援を受けて進められる数多くの研究プロジェクトがそれに当たる。例えば、私が研究メンバーの一人として関与している「大河内賞ケース研究プロジェクト」(代表者武石教授)と「『組織の重さ』プロジェクト」(代表者沼上教授)という2つの研究プロジェクトもまた、HMBAやHSEPと同じように、理論と現実の往復運動の必要性から生まれたプロジェクトのひとつである。
そもそも、他のCOEプロジェクトと同様に、私が関与する2つのプロジェクト開始の契機は、商学研究科の伊丹教授が全体統括として、商学研究科とイノベーション研究センターと国際企業戦略研究科が共同で提案した「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」という研究プロジェクトが、2003年に文部科学省「21世紀COEプログラム」(http://www.jsps.go.jp/j-21coe/)に選定されたことに端を発している。21世紀COEプログラムとは、世界最高水準の研究拠点(CenterOfExcellence)の確立を意図して2002年度から文部科学省が始めた企画で、厳正な審査の下に各大学の提案プロジェクトに対して、5年間重点的に研究資金を補助するというものである。経営学分野では一橋大学の他に、東京大学と神戸大学が拠点形成のための資金的援助を受けている。
このCOE研究プロジェクトを通じて、研究現場が変わりつつある。その変化とは、それまで個人の職人的な研究活動が中心であったが、それに加えて、研究蓄積の長期的な累積性を意図した、大がかりな共同研究活動が立ち上がりつつある、というものである。それまでしたくてもできなかった、理論と現実の往復運動を意図した本格的な共同研究が、多額の資金的援助の下で、可能になりつつあるのである。
■2つのプロジェクトの共通点
イノベーション研究センターが主導する「大河内賞ケース研究プロジェクト」では、大河内賞受賞事例のケース作成を通じて、日本企業のイノベーションパターンを体系的に解明することを意図している(詳細についてはイノベーション研究センター(http://www.iir.hit-u.ac.jp/reserch/COEogochiprize(A).html)のHPを参照されたい)。それまで、イノベーション研究の事例については、米国企業についての事例が中心であり、日本企業についての事例が少ないため、日本企業のR&D活動に関する独自の事例の蓄積を必要としていた。日本企業のイノベーションパターンを体系的に解明する前に、その基礎となる事例の蓄積がそもそも欠けていたのである。COEによる支援は、日本のイノベーションパターンや日本的な特徴の解明の糸口となる日本企業の研究・開発活動・事業化に関する事例作成・蓄積の活動の契機となったのである。これまでに17の事例が取り上げられ、順次ケースとしてイノベーション研究センターのHPにおいて公開されている。少しずつではあるが、研究開発活動において日本企業が直面する共通課題のようなものが明らかになりつつある。
また、「組織の重さプロジェクト」では、日本企業の戦略・組織にかかわる定量的データを可能な限り継続的に蓄積することを意図し、2004年に18社と研究コンソーシアムを結成し、2005年1月までに107のBusinessUnitに対して、組織と戦略に関する質問票調査を行った(詳細については、日本企業研究センター(http://www.cm.hit-u.ac.jp/coe/index.html)のHPを参照されたい)。この調査を通じて、BU長とそれ以下の階層(ミドルやロワー)との認識が大きく乖離しているケースや年齢差やタテのコミュニケーション距離が認識ギャップの原因の一つになっているなど興味深い事実が明らかになりつつある。
これら2つのプロジェクトは、大河内賞のプロジェクトがイノベーション研究で、組織の重さプロジェクトが組織・戦略研究という点で、一見すると目指すべき研究の方向性は異なって見えるかもしれない。しかし、両者のプロジェクトには、その根っこにおいていくつかの共通点がある。その一つが、両プロジェクトともに実業界の方々からの多大なる支援、濃密な連携があってこそ初めて可能となったという点である。具体的に言えば、大河内賞プロジェクトは、ケース作成の際に、受賞企業の選定・担当者へのアプローチが最初のステップとして不可欠だが、その際に大河内賞事務局からの全面的な支援を受けている。また、重さプロジェクトでは、調査対象となるBusinessUnitの確定や質問票の配布・回収を通じたデータ収集において、研究コンソーシアム参加企業の方々からの多大な協力を得て初めて可能となっている。
また、両プロジェクトともに、生きたデータを頂いて、それを整理・検討し、あるときは理論的な知見として、データ提供頂いた企業にフィードバックするという点で、共通点を持っている。理論と現実の往復運動である。どちらのプロジェクトもまた、アカデミアとプラクティショナーとを有機的に結びつけて、新たな知を生み出すための結節点となることを志向しているという点で共通している。
■おわりに:さらなる発展へ向けて
新聞雑誌等を見ていると、最近米国ではMBAのあり方について、カリキュラムや教育方法も含めて、再検討する気運が高まりつつあるようである(興味がある方は、例えば、WarrenG.BennisandJamesO’Toole,“HowBusinessSchoolsLostTheirWay”,HarvardBusinessReview,2005/05.を一読されることを勧める。そこでは経営現象を研究対象とするビジネススクールに所属する学者の知識獲得のあり方が問われている)。他方で、日本では本格的にビジネススクールが立ち上がりつつある。一橋大学商学研究科もまた、HMBAプログラムを通じて、実務知識偏重でも理論倒れでもない、「新しい日本型」ビジネススクールを創ることを目標として掲げている。その成否は、理論と現実の往復運動を意図した健全な研究活動を通じて、どれだけ企業社会に対して意義ある研究知見を発信し、また教育プログラムに還元できるかにかかっている、と個人的には思っている。今回紹介した2つの研究プロジェクトは、そのような往復運動を意図した研究活動の一部である。
「大事をなさんと欲すれば小なることを怠らず努むべし。小積もりて大となればなり」
この言葉を胸に、COEの共同研究プロジェクトを通じて、迂遠ながらHMBAの発展に日々微力ながら貢献していきたいと考えている。