時には利益を犠牲にしても追求すべきもの -「企業の社会的責任」再考-

助教授 田中一弘

【はじめに】

 昨年から今年の春にかけて、「企業の社会的責任とガバナンス」について企業の経営者たちを中心に議論する委員会((社)日本経済調査協議会主催)に参加する機会を得た。NECの金子尚志名誉顧問(元社長)が委員長、伊丹敬之教授が主査となり、電機、機械、化学、医薬品、銀行・証券のトップやその経験者など20名ほどを委員として構成されるこの委員会に、専門委員の一人として加わったのである。1年間にわたり毎月1回のペースで活発な議論を重ね、このほど報告書がまとまった。

 企業の社会的責任(CSR)のエッセンスを、この報告書は「時には利益を犠牲にしても企業の社会的有用性を優先すること」としている。企業の経営者たち自身が「利益を犠牲にしても」と敢えて明言しているところが興味深い。コンプライアンスでも社会貢献でもなく、「企業の社会的有用性」がCSRの中核だ、としている点も注目される。

 以下、このCSRのエッセンスの考え方について、報告書に依りながら、少し詳しく見ていきたい。

【3つのCSR】

 CSRの内容は大きく3つに分けられる。第一に「社会の公器として、社会の中の自社の有用性を大きくする責任」(有用性責任)、第二に「社会の中の重要な存在として、社会の規範を守り社会の安定のために努力する責任」(規範責任)。第三に、「社会の中の市民としての責任」(市民責任)である。

 「規範責任」はコンプライアンスや地球環境への配慮など、広く社会の安定的基盤を擁護する一連の責任を、また「市民責任」は企業市民としての社会貢献活動(文化やスポーツの振興、従業員のボランティア活動支援など)への責任を指す。企業はこれらの責任も果たさねばならないのは言うまでもない。とりわけ規範責任は、企業がそれを軽視したときに社会に与えるインパクトの大きさを考えれば、その重要性は十分に強調されなければならない。規範責任はCSRの基盤である。

 そうした基盤をきちんと確保した上で、しかし、CSRとして最も社会性が強く、中心を占めるべきなのが「有用性責任」なのである。

【有用性責任の追求】

 「自社の有用性を大きくする」有用性責任には、a)経済活動を通じて社会に貢献する、b)企業にしかできない社会のための貢献を行う、という2つの側面がある。a)は、よりよい製品・サービスの提供によって人々の生活を豊かにする、あるいは付加価値の大きな企業活動によって雇用や納税で貢献する、ということ。b)は、例えば地球環境保護や高齢化社会対応のための独自の製品・サービスを、その企業が蓄積した資源を活かして提供することで、社会に貢献するというものである。

 規範責任や市民責任は、個人にも課された責任である。そうであれば、CSRすなわち企業の社会的責任などということを敢えて問題にすることに(企業のプレゼンスの大きさゆえの「量的」意義はあるものの)「質的」な意義は見あたらなくなる。企業が企業である所以のもの、それは企業が技術的変換によって製品・サービスを社会に供給し、付加価値を生むというところにあるはずである。その有用性ゆえに社会は企業の存在を認めている。それゆえ企業の社会的責任としては、社会的有用性という本来の使命を立派に全うする責任をこそ中核に据えなければならないのである。

 ところで、企業が社会の中での有用性を高めることは、もちろん利益の最大化にもつながる。「それなら結局、有用性責任の追求と利益責任の追求は同じことではないか」と思われるかもしれない。しかし冒頭で述べたように、CSRのエッセンスは「時には利益を犠牲にしても」社会的有用性を高める、ということなのである。

 それでもなお反論があるかもしれない。「利益を犠牲にせよということは、(利益最大化の手段でもある)有用性の追求を手控えろということであって、それでは有用性を高めよとの主張と矛盾するではないか」と。これについては次のように考えると納得がいくのではないか。

【何を手控えるのか】

 企業が社会に貢献する一方で、社会はその貢献に対して企業に報酬を与えてくれる。企業が得る利益とは、こうした意味での社会からの報酬であると考えることができる(例えば松下幸之助『実践経営哲学』)。このように考えたとき、企業が受け取る報酬を大きくするためには2つの手段がある。〈貢献水準〉自体を高めることと、所与の貢献水準に対する〈報酬比率〉を上昇させること(自分が100の貢献をすれば、60や70ではなくできるかぎり100に近い報酬を要求する)である。例えば、前者はイノベイティブな製品を次々に開発することによって、後者は製品の市場価格低下を防ぐ方策をとることによって、実現する。

 どちらを追求しても利益最大化につながるが、有用性責任を「(時には)利益を犠牲にする」と言っている意味は、〈報酬比率〉の追求を控え目にする、ということである。〈貢献水準〉の追求は、文字通り社会への貢献を高めるのであるから有用性責任につながりやすいのに対して、〈報酬比率〉の追求は利益の追求にはなっても、社会への貢献度合いは変わらないのである(報酬比率の適正な追求それ自体は全く問題ない。しかし過度の追求は違法行為の原因となり、コンプライアンスに抵触する事態を招く)。単純化して言えば、社会が本当に必要とする製品の開発には徹底的に取り組んだ上で、その成果を上市するに際しては敢えて利幅の小さい価格設定をする、といったイメージである。

 とはいえ、営利追求それ自体をも目的としている企業はそうした犠牲を「常に」することは許されない。有用性責任のCSRは、長期利益の最大化を「時には」図らないことによって果たされる。〈貢献水準〉の追求には「常に」手を抜かないが、その見返りとしての〈報酬比率〉の追求は「時には」控えるのである。

 「本業において報酬以上の務めをなす」。企業は、実際に報酬を控えるのは「時に」であったとしても、少なくともこのようなスタンスを常に忘れずに事業に注力してこそ、真の「社会的責任」を果たすことにつながるのであろう。そしてこのスタンスは、じつは個人が社会の中で自らの責任を果たす上でも重要なのではないだろうか。