准教授 加藤俊彦
皆さんは「ひょうたん池」をご存じだろうか。ひょうたん池とは、西キャンパスの生協裏手にある小さな池である。HMBAの学生にはその存在があまり知られていないようだが、池の中程にある石の上で亀が甲羅干しをしていたり、水の中で大きな鯉が我が物顔で泳いでいたりと、大学構内で自然に接することができる場所の一つである。
研究室が近い上に大学の裏手に住んでいる私にとって、ひょうたん池で亀や鯉が戯れる姿は見慣れたものとなっていた。だが、この池の生態系が目に付くものよりも複雑であることを知ったのは、つい最近である。5月のある日、近所の小学生たちが池の中から網で何かをすくっていた。亀か鯉でもとろうとしているのかと思い、注意でもしてやろうと近寄っていったところ、彼らが捕っていたのは、ヌマエビと、ハゼ科と思われる小魚であった。お世辞にもきれいとはいえない池の中に、雑多な生き物が生息しているとは考えていなかった。ふだんの光景の中に、新たな発見があることを改めて知った。
着任から7年目となり、私にとって見慣れた光景となりつつあるHMBAでも、新たに知ったり、考えさせられたりすることが少なくない。とりわけ昨年度から古典講読を担当するようになって以来、HMBAでの「学びの過程」について、私自身が多くのことを学んできた。
ご承知の通り、古典講読は必修科目でありながら、相応の作業が課せられる。多くの受講者にとって馴染みがない書物を対象として、「要旨」と「小論」という課題を毎回提出し、担当グループには、事前の打ち合わせに基づいた当日の内容説明と議論のコーディネイトが要求される。これらの課題は、受講者から見て、必ずしも楽なものではないだろう。
しかし、多くの受講者は、担当する以前の私の予測よりもはるかに真面目にこれらの課題に取り組んでいる。その結果、提出されるレポートの内容や議論が週を追うごとに少しずつ変化していく。このような一人一人の努力と進歩の過程は、文章レベルの添削などを通じて、担当者には手に取るようにわかる。もちろん絶対的水準から見た個人差は最後まで残るのだが、より重要なのは個々人にとっての変化の度合いである。多くの提出レポートや議論において、大きな質的変化が短い期間に生じている。このことが重要なのである。
古典講読に限らずこの種の過程を様々に経験することで、個々人が少しずつ身につけていく思考力こそが、HMBAが本質的に提供しているものではないかと、私は考えている。目まぐるしく変化する現象やそれにラベルを貼っただけのような理論(らしきもの)を追うだけであれば、貴重な人生の2年間を費やす必要はない。適当な書籍やビジネス雑誌でも読めば、事足りるはずである。しかし、経営にかかわる問題を考える上で本当に重要なのは、表面的に見える現象の背後に潜むロジックやメカニズムを自分で考察できるだけの力である。その威力は自分が身につけて初めてわかるものであり、MBAというラベル自体を有り難がったり、逆に忌み嫌ったりする水準で、理解できるようなものでは決してない。そもそもそのような形式的なカテゴリーに基づく発想自体が、表面的な思考に陥っている証である。
1年の夏学期に開講される古典講読という科目は、そのような思考力をつけるための入り口にすぎない。しかし、その入り口を間近に見るだけで、その種の過程で蓄積される能力の意義を、私は強く感じている。そして、修了後にいかにしてそのような蓄積を活かし、さらに思考力を深めていくかは、現象の背後にあるものに対する、その人のセンシティビティにかかっているように思われる。